第11回 白猫の幻影
写真の男は理事長の大竹とは大分雰囲気が違っていた。男は黒々とした七三分けで顔もほっそりしているが、理事長の大竹は額が禿げあがって白髪混じりだ。しかし、25年の歳月の流れは感じさせたが、写真の男の顔に理事長の大竹の面影は確かに残っていた。
「大竹さんは詐欺師なんですか?」
真左子は尋ねた。
「そう」
紙野は頷いた。
「100%詐欺師だよ」
紙野は言った。
「この事件はね、大竹が当時、諸実興産の主力商品だったエゾチラミンという抗不安薬の販売代理店にならないか、という話を取引先の社長に持ちかけたんだ。それでその社長に商品納入代金として、額面1億円の手形を4通振り出させたんだよ。しかし、当時諸実興産では販売代理店を設ける計画など全然なくて、すべて大竹のデタラメな作り話だったんだ。大竹はパクった手形をすぐ街の金融業者で割り引いていた。取引先の社長が警察に告訴して、大竹は逮捕されたってわけさ」
真左子には事情が複雑すぎてよく理解できなかった。
「どうしてマンションの理事長の大竹が、この事件の大竹だと分かったんですか」
「僕も最初は分からなかった。ただ、理事会に出たとき、大竹吉誠という名前を聞いて、どっかで聞いたことがある名前だなと頭に引っ掛かったんだ。しばらく経って思い出した。諸実興産事件の大竹吉誠だとね」
話すときに眉にしわを寄せるのが紙野の癖だった。偉ぶっているように見える。
「それで諸実興産事件の大竹吉誠のことを徹底的に調べ上げたんだ。そしたら大竹吉誠は山梨の出身ということが分かった。その後マンションの理事会で会った時、大竹に『ご出身はどちらですか』と尋ねてみたら、『山梨です』って答えたんだ。理事長の大竹はこの事件の大竹吉誠に間違いない」
「なんでそんなことまで調べられるんですか」
真左子は尋ねた。
「それは、調べられるさ」
紙野はニヤリと笑った。
奥さんがコーヒーを運んできて2人の前に置いた。
コーヒーの香りが辺りに漂う。
真左子は「恐れ入ります」と頭を下げた。
「大竹の生い立ちはこうだ」
紙野は続けた。
「大竹は昭和24年3月9日生まれ。山梨県の小田切山の麓にある、人里離れた集落で生まれた。生家は貧しい養蚕農家だった。母はミツといって、地元に1軒しかない郵便局を営んでいた田路丙乃介の四女だ。戦争で日本の敗色が濃厚になった昭和18年、ミツの夫の友五郎は招集されて兵役に就いた。第461高射砲連隊という主として山梨県北東部の農家の二男坊や三男坊で編成された連隊で、内地で数カ月の訓練を受けた後、すぐに中国戦線に送り込まれた。
しかし、後方部隊からの燃料や食料などの補給はすぐに途絶え、連隊は1両21トンもある高射砲をその場に放置して、小火機だけを携えて大陸を彷徨うことになる。もちろん、敵に見つからないように高射砲は念入りに枯れ木や枯れ草でカムフラージュした。しかし大陸を吹き荒れる風は日本では想像もつかないくらい強い。ある嵐の夜、カムフラージュの枯れ木や枯れ草は見事なまでに綺麗に吹き飛ばされてしまった。台地に鎮座した16両の高射砲は、丘の上から眺めると、まるで古代のモニュメントのようだったそうだ」
「どうしてそんなことまで分かるんですか」
真左子は尋ねた。
「そりゃ、分かるさ」
紙野はまたニヤリと笑った。
真左子は紙野のことが空恐ろしくなった。どうして人に関するデータをこんなに細かく調べることができるのだろう。おそらく膨大なデータベースを利用できる立場にいるのに違いない。私のデータも調べられているかもしれない・・・。
紙野は、話しているうちに自ら興奮してきたようで鼻の穴が膨らみ声が更に大きくなっていった。
「昭和20年になってソ連軍が満州に侵入した。友五郎は銃剣も何もかも捨てて、ボロ布をまとった亡霊のような姿になって大陸を逃げ惑った。しかし、ようやくたどり着いた広州でソ連兵に捕まって、シベリアに送られたんだ。そして4年間収容所に抑留されて日本に帰還した。昭和24年のことだ。ところが小田切山の故郷に戻ってみると、妻のミツは既に集落の別の男と所帯を持っていたんだ。喜一という男で、腕の良い蚕職人だったそうだ。逆上した友五郎は一家の殺害を決意したんだ」
「殺害?」
「そう、殺害」
紙野は椅子を後ろに引いて席を立って真左子の背の後ろにある引き戸を開けて隣の部屋へ入っていった。真左子も肩越しのその部屋を見た。洋間だった。くたびれたソファの周りにいくつか段ボール箱が置かれ、資料があふれ出ていた。
紙野は段ボール箱の中から1枚の紙を抜き出し、テーブルに戻ってきた。
紙野はその紙を仰々しく真左子の前に置いた。
昭和24年11月17日の中部日日新聞の縮刷版のコピーだった。
「一家3人殺される」という見出しだった。見出しの横に物置のような簡素な木造の家の写真が載っていた。
真左子は目をそむけた。
紙野はそんな真左子に気遣う様子もなく続けた。
「友五郎は、裏手の雑木林に隠れて夜中になるのを待ち、家に侵入して喜一、ミツ、8歳になる長男の利男を殺害し、自分も4キロほど離れた山に入って首を吊って死んだ。その時、まだ生後8カ月の乳飲み子だった大竹は生き残ったんだ。囲炉裏の脇で火がついたように泣いているのを踏み込んだ警官が発見したんだ。多分、友五郎が見逃したんだと思う。それと白い猫も1匹、難を免れて生きていた」
「白い猫!?」
「ミツが可愛がっていたらしい。この記事にも白い猫が1匹家に残されていた、と書いてある」
「その白い猫はどうしたんですか?」
「そこまでは分からない。誰かに引き取られたか、外に放たれたか・・・」
「・・・・・・」
「家族を殺された大竹は、その後遠縁の親類に預けられたりして随分苦労したようだ。いつ東京に出てきたのかは分からない。諸実興産に入る前は水産加工品の仲卸会社の経理担当として何年か勤めたようだが、詳しいことは分からない。昭和60年に諸実興産に入社してからは異例の出世を遂げた。なにしろ5年で経理担当取締役に抜擢されたんだからな。そしてこの事件を起こしたってわけさ」
紙野はコーヒーをすすって真左子の顔を真正面から見据えた。
「大竹はこの手形詐取事件で大分刑務所に3年服役している。出所後の足取りは全然分からない。今のマンションに越してきたのは平成15年だから、その間、どこで何をしていたかは分からない」
紙野は煙草に火を付け、テーブルの真ん中にあった小さい灰皿を自分の前に置いた。
煙草の煙が天井から1メートル位のところにゆったりと滞留した。
紙野の声が止むと、部屋の中は静かだった。
真左子は紙野の背後の壁に目を移した。そこには畳半畳位の大きさの中国の水墨画のような絵が掛かっている。
キッチンにいた奥さんの姿は見えなくなっていた。自分の部屋にでも行ったのだろうか。
木製のカウンターの上には瓶やら缶などが雑然と並べられていた。
どうしていいか分からなかった。
「私はどうしたらいいんですか?」真左子は尋ねた。
「マンション住人の総会を開いて理事長の大竹を辞めさせるしかない」
「私にそんなことができるんですか? 大竹はプロの詐欺師ですよね」
「僕もできる限りのことは協力する。こっちに越してきたけど、まだ明日このマンションは売ってないんだ。僕も所有者だよ」
あまりに複雑な話に真左子の頭は混乱していた。
「とにかく今日のことを多津子に話そう」
そう思うのが精一杯だった。
庭にいた茶トラと三毛の猫はまだいた。いつのまにか白猫が芝生の上に来ていた。白猫はオッドアイで窓越しにこちらを見ていた。真左子は「サイレントニャー」で挨拶をしてみたが、白猫は反応を示さなかった。ただじっと真左子を見つめていた。
(続く)
著者:林太郎