そしてもう1冊、『蚕の神さまになった猫』。

こちらは群馬県の富岡市立美術館・福沢一郎美術館の開館十周年を記念して開催された企画展の冊子である。

蚕の神さま表紙 (500x375)

『蚕の神さまになった猫』富岡市立美術館・福沢一郎美術館発行/平成18年6月)

富岡と言えば富岡製糸場。古くから養蚕が盛んで、やはりこの地域でも猫が飼われていた。本書では、養蚕農家が猫を飼う様子を描いた錦絵も紹介されている。

この他にも、猫がネズミを加えている「猫絵」を蚕室に貼ってある様子を描いた錦絵や猫とネズミが登場するおもちゃ絵なども掲載されており、当時の養蚕農家の様子をかいま見ることができる。

蚕の神さま錦絵 (500x375)

蚕に桑の葉を与える部屋に黒ブチの猫が描かれている。首に巻かれた赤いひもには鈴がついている?

おもしろいのは、宮城県では蚕を狙うネズミを捕ってくれる猫を「石碑」にして祀ったり、供養していたのに対し、群馬県では“猫のお札”が流行したこと。群馬だけでなく、埼玉や長野、新潟でも猫のお札が多数発見されているそうだ。

鼠除け札1 (500x368)

キッと睨みをきかせる猫目が印象的な「鼠除け札」

中でも、一番ご利益があるとされ、有名だったのが「新田猫絵」。

江戸時代後期、新田岩松氏の温純、徳純、道純、俊純の四代にわたる殿様が描いた「猫絵」はネズミ除けに絶大な効果があると信じられ、群馬、埼玉、長野などの養蚕地帯に広まったというのである。

(4人目に名前があがっている俊純は、神坂次郎による時代小説『猫男爵』の主人公。「猫絵の若殿」という章があるので、読んだことのある方は、「あぁ、あの猫絵の…」と思いだされるだろう。新田岩松氏は石高が非常に低く、その苦しい家計を支えた1つが「猫絵」だと書かれている)

 

とにかく、この「新田猫絵」は大変な人気であり、なんと、にせもの?も出回っていたらしい!

「新田猫絵」と言えば、新田岩松氏四代の殿様によるものが正統。ところが、群馬県立博物館には、この四代以外の新田を名乗る猫絵も収蔵されており、新田一族の出自であることがわかっている人もいるらしいのだが(でも殿様ではない)、中には、どうにも新田一族とのつながりがわからない名前もあるというのだ。

いつの時代も、人気のあるものにはニセモノや、その名を騙る悪い輩がいたというわけか。

 

この「ニセモノ」話の他にも興味深い話が紹介されている。たとえば、

 

【薬のおまけに猫絵】

明治から大正にかけては、ネズミ除けをうたった刷り物も多く作られた。なかでも興味深いのは、「富山の薬売商人」が得意先に“おまけ”として配ったとされる多色刷り版画。養蚕の盛んな地域で喜ばれたという。

これらのなかには、「弘法大師が描いた猫の写し」とか「新田猫である」といった説明文が記されているものもあったそうで(もちろん、本物ではない)、それらを引き合いに出すことで、“ただのおまけ”を「もっともらしくしたかった」ということだったのだろう。

このあたり、今も昔も、人が考えることは同じなのだなぁ、おもしろいなぁ。

 

【ネズミをよく捕る猫、捕らぬ猫】

明治43年に『猫』を記した養蚕家・石田孫太郎さんの見聞によれば、オス猫とメス猫では、オス猫がよくネズミを捕り、毛色は三毛が良いとしている。反対にネズミをあまり捕らないのは、虎毛のオス猫だという。

他にも何冊かの本に、毛色によってネズミを捕ることの上手下手があることが書かれているそうだ。著者の経験値なのだろうが、そうしたことがハウツー本として広く伝えられていたことが興味深い。

そしてもう1冊、『蚕の神さまになった猫』。

こちらは群馬県の富岡市立美術館・福沢一郎美術館の開館十周年を記念して開催された企画展の冊子である。

蚕の神さま表紙 (500x375)

『蚕の神さまになった猫』富岡市立美術館・福沢一郎美術館発行/平成18年6月)

富岡と言えば富岡製糸場。古くから養蚕が盛んで、やはりこの地域でも猫が飼われていた。本書では、養蚕農家が猫を飼う様子を描いた錦絵も紹介されている。

この他にも、猫がネズミを加えている「猫絵」を蚕室に貼ってある様子を描いた錦絵や猫とネズミが登場するおもちゃ絵なども掲載されており、当時の養蚕農家の様子をかいま見ることができる。

蚕の神さま錦絵 (500x375)

蚕に桑の葉を与える部屋に黒ブチの猫が描かれている。首に巻かれた赤いひもには鈴がついている?

おもしろいのは、宮城県では蚕を狙うネズミを捕ってくれる猫を「石碑」にして祀ったり、供養していたのに対し、群馬県では“猫のお札”が流行したこと。群馬だけでなく、埼玉や長野、新潟でも猫のお札が多数発見されているそうだ。

鼠除け札1 (500x368)

キッと睨みをきかせる猫目が印象的な「鼠除け札」

中でも、一番ご利益があるとされ、有名だったのが「新田猫絵」。

江戸時代後期、新田岩松氏の温純、徳純、道純、俊純の四代にわたる殿様が描いた「猫絵」はネズミ除けに絶大な効果があると信じられ、群馬、埼玉、長野などの養蚕地帯に広まったというのである。

(4人目に名前があがっている俊純は、神坂次郎による時代小説『猫男爵』の主人公。「猫絵の若殿」という章があるので、読んだことのある方は、「あぁ、あの猫絵の…」と思いだされるだろう。新田岩松氏は石高が非常に低く、その苦しい家計を支えた1つが「猫絵」だと書かれている)

 

とにかく、この「新田猫絵」は大変な人気であり、なんと、にせもの?も出回っていたらしい!

「新田猫絵」と言えば、新田岩松氏四代の殿様によるものが正統。ところが、群馬県立博物館には、この四代以外の新田を名乗る猫絵も収蔵されており、新田一族の出自であることがわかっている人もいるらしいのだが(でも殿様ではない)、中には、どうにも新田一族とのつながりがわからない名前もあるというのだ。

いつの時代も、人気のあるものにはニセモノや、その名を騙る悪い輩がいたというわけか。

 

この「ニセモノ」話の他にも興味深い話が紹介されている。たとえば、

 

【薬のおまけに猫絵】

明治から大正にかけては、ネズミ除けをうたった刷り物も多く作られた。なかでも興味深いのは、「富山の薬売商人」が得意先に“おまけ”として配ったとされる多色刷り版画。養蚕の盛んな地域で喜ばれたという。

これらのなかには、「弘法大師が描いた猫の写し」とか「新田猫である」といった説明文が記されているものもあったそうで(もちろん、本物ではない)、それらを引き合いに出すことで、“ただのおまけ”を「もっともらしくしたかった」ということだったのだろう。

このあたり、今も昔も、人が考えることは同じなのだなぁ、おもしろいなぁ。

 

【ネズミをよく捕る猫、捕らぬ猫】

明治43年に『猫』を記した養蚕家・石田孫太郎さんの見聞によれば、オス猫とメス猫では、オス猫がよくネズミを捕り、毛色は三毛が良いとしている。反対にネズミをあまり捕らないのは、虎毛のオス猫だという。

他にも何冊かの本に、毛色によってネズミを捕ることの上手下手があることが書かれているそうだ。著者の経験値なのだろうが、そうしたことがハウツー本として広く伝えられていたことが興味深い。