そう言えば、神楽坂には「化け猫フェスティバル」というイベントがある。公式HPによれば、《2010年から始まった猫の仮装イベント。神楽坂は「吾輩は猫である」で知られる夏目漱石のゆかりの地であり、江戸時代から花街として文化を支え、猫と縁の深い街として猫好きの人にも猫にも愛されてきました。猫の街ならではのお祭りをという声から生まれたイベントとして……(略)》とのこと。
毎年10月に開催されている、このイベント。ハロウィン絡みということもあり、実はこれまで「なんで神楽坂で化け猫なんだよ」とあまり好ましく思っていなかった。

でも、もしかすると、神楽坂には昔から猫がたくさんいて、巷に化け猫の昔話もあって、そうした神楽坂の土地の記憶が、鏡花の化け猫怪談話、「猫の町・神楽坂」のイメージ、化け猫フェスティバルなどをつなげているのかもしれないなぁと思ったりもする。

つながっている、と言えば…最後に、猫の町・神楽坂のシンボル猫となった猫が、もしかしたら、夏目漱石の“吾輩猫”の子孫か!?の話を。

石畳とメメ (500x398)

『神楽坂の親分猫』より。

石畳の上に座る猫は、旅館「和可菜」で飼われていた黒猫のメメという。

和可菜は、神楽坂の路地の奥にある旅館である。昭和29年に開業したこの小さな旅館は、名だたる映画監督、脚本家、作家などが原稿執筆のために“カンヅメ”になってきた通称《ホン書き旅館》。和可菜の歴史と、彼らをきびしくも温かい目で見守り続けた名女将や従業員の女性たちのことは本を読んでいただくとして…。

ホン書き旅館親分猫表紙 (500x362)

(写真左)『神楽坂ホン書き旅館』黒川鍾信著 新潮社 2007年11月1日初版/(写真右)『神楽坂の親分猫』黒川鍾信著 講談社 2009年4月22日初版/黒川氏は和可菜の女将さんの甥。

メメは和可菜の看板猫として女将さんや宿の常連たちに愛され、さらには神楽坂の町おこしのシンボル的な存在として、神楽坂ぽちぶくろや缶バッジのキャラクターになった猫だ。

ぽち袋のメメ (500x380)

『神楽坂の親分猫』より

驚いたのが、この記述!
裏表紙のカバー、著者のプロフィールが書かれている下にメメの写真が載っているのだが、そこに《鼻も肉球も真っ黒の親分猫、メメちゃんの幼い頃》と書かれている。今までどうして気がつかなかったのか…。不覚。
もしかしたら、『吾輩は猫である』のモデルとなった黒猫の子孫かもしれないじゃないか~!

著者プロフィールとメメ (500x359)

『神楽坂の親分猫』カバーより

以前、この「にゃんこマガジン」に寄稿した《漱石の猫と文鳥と》で、林丈二が著書『猫はどこ?』の中で、『吾輩は猫である』のモデルとなった黒猫の子孫を探しているという話を書いた。
モデルとなった吾輩猫の特徴は、①全身、黒ずんだ灰色の中に虎斑がある ②一見、黒猫に見える ③全身、足の爪まで黒い福猫 だという。
和可菜の看板猫だったメメは、実は真っ黒な黒猫ではなく、アメリカンショートヘアーで、その中でも珍しい「ソリッド・ブラック(混ざりのない同一の黒、の意)という種類。つまり、①を満たしていることになる。そして、②も、③も…となれば、漱石の吾輩猫の子孫である可能性もゼロではないと思う。

しかも、漱石が晩年を過ごした早稲田南町と、和可菜のある神楽坂4丁目はすぐ近く。
漱石の気持ちを和ませ、家族との絆を取り持ち、名作を生むきっかけになった黒猫は、『吾輩は猫である』が発行された3年後の1908(明治41)年に亡くなったが、鏡子夫人は、このモデルとなった猫と同じような猫を探して、飼い続けたそうだ。
やはり、メメは吾輩猫の血筋じゃないのかなぁ。

もっともメメも既に天国に召されてしまっているので、もはや確かめようもないのだが、旅館「和可菜」にも、女将さんや従業員の方にも、和可菜に集まった当代一流の作家や監督たちにも、神楽坂の町にも、福をもたらす福猫だったことは間違いない。

そう言えば、神楽坂には「化け猫フェスティバル」というイベントがある。公式HPによれば、《2010年から始まった猫の仮装イベント。神楽坂は「吾輩は猫である」で知られる夏目漱石のゆかりの地であり、江戸時代から花街として文化を支え、猫と縁の深い街として猫好きの人にも猫にも愛されてきました。猫の街ならではのお祭りをという声から生まれたイベントとして……(略)》とのこと。
毎年10月に開催されている、このイベント。ハロウィン絡みということもあり、実はこれまで「なんで神楽坂で化け猫なんだよ」とあまり好ましく思っていなかった。

でも、もしかすると、神楽坂には昔から猫がたくさんいて、巷に化け猫の昔話もあって、そうした神楽坂の土地の記憶が、鏡花の化け猫怪談話、「猫の町・神楽坂」のイメージ、化け猫フェスティバルなどをつなげているのかもしれないなぁと思ったりもする。

つながっている、と言えば…最後に、猫の町・神楽坂のシンボル猫となった猫が、もしかしたら、夏目漱石の“吾輩猫”の子孫か!?の話を。

石畳とメメ (500x398)

『神楽坂の親分猫』より。

石畳の上に座る猫は、旅館「和可菜」で飼われていた黒猫のメメという。

和可菜は、神楽坂の路地の奥にある旅館である。昭和29年に開業したこの小さな旅館は、名だたる映画監督、脚本家、作家などが原稿執筆のために“カンヅメ”になってきた通称《ホン書き旅館》。和可菜の歴史と、彼らをきびしくも温かい目で見守り続けた名女将や従業員の女性たちのことは本を読んでいただくとして…。

ホン書き旅館親分猫表紙 (500x362)

(写真左)『神楽坂ホン書き旅館』黒川鍾信著 新潮社 2007年11月1日初版/(写真右)『神楽坂の親分猫』黒川鍾信著 講談社 2009年4月22日初版/黒川氏は和可菜の女将さんの甥。

メメは和可菜の看板猫として女将さんや宿の常連たちに愛され、さらには神楽坂の町おこしのシンボル的な存在として、神楽坂ぽちぶくろや缶バッジのキャラクターになった猫だ。

ぽち袋のメメ (500x380)

『神楽坂の親分猫』より

驚いたのが、この記述!
裏表紙のカバー、著者のプロフィールが書かれている下にメメの写真が載っているのだが、そこに《鼻も肉球も真っ黒の親分猫、メメちゃんの幼い頃》と書かれている。今までどうして気がつかなかったのか…。不覚。
もしかしたら、『吾輩は猫である』のモデルとなった黒猫の子孫かもしれないじゃないか~!

著者プロフィールとメメ (500x359)

『神楽坂の親分猫』カバーより

以前、この「にゃんこマガジン」に寄稿した《漱石の猫と文鳥と》で、林丈二が著書『猫はどこ?』の中で、『吾輩は猫である』のモデルとなった黒猫の子孫を探しているという話を書いた。
モデルとなった吾輩猫の特徴は、①全身、黒ずんだ灰色の中に虎斑がある ②一見、黒猫に見える ③全身、足の爪まで黒い福猫 だという。
和可菜の看板猫だったメメは、実は真っ黒な黒猫ではなく、アメリカンショートヘアーで、その中でも珍しい「ソリッド・ブラック(混ざりのない同一の黒、の意)という種類。つまり、①を満たしていることになる。そして、②も、③も…となれば、漱石の吾輩猫の子孫である可能性もゼロではないと思う。

しかも、漱石が晩年を過ごした早稲田南町と、和可菜のある神楽坂4丁目はすぐ近く。
漱石の気持ちを和ませ、家族との絆を取り持ち、名作を生むきっかけになった黒猫は、『吾輩は猫である』が発行された3年後の1908(明治41)年に亡くなったが、鏡子夫人は、このモデルとなった猫と同じような猫を探して、飼い続けたそうだ。
やはり、メメは吾輩猫の血筋じゃないのかなぁ。

もっともメメも既に天国に召されてしまっているので、もはや確かめようもないのだが、旅館「和可菜」にも、女将さんや従業員の方にも、和可菜に集まった当代一流の作家や監督たちにも、神楽坂の町にも、福をもたらす福猫だったことは間違いない。