第6回 新たな敵?
「丹野はこれはゲロの跡だって言うんだけど、二田さんは絶対血の跡だって。写真撮って動物病院の先生に見せたら、先生は『これは血の跡です』って言ったんだって。それで二田さんはクララは丹野に殺されたんだって言ってるの。もうカンカンに怒っちゃって、裁判起こしてもいいからとにかく丹野をとっちめてやるって」
奥さんは続けた。
「それでね、丹野はクララがベランダから逃げたって言うんだけど、二田さんはそんなことあり得ないって。クララはもう11歳だし大人しい子だから2階のベランダからジャンプするなんてことはあり得ないって。それにアタシが探して見つからなかった子は今までいないって言うの」
「ひどい話ですね」真左子は言った。
このマンションでそんなことが起きているとは知らなかった。
悪質な里親だ。真相は分からない。しかしクララに何があったのか丹野という男にきちんと話してもらわなくてはならないだろう。虐待魔かもしれない。このままでは済まされない。
「私も協力させてください」真左子は言った。
そう言ったとき、ハッと気がついた。
このマンションで自分以外の誰かが自転車置場で猫への餌やりをしていることは分かっていた。
もしかすると餌やりをしているのは7階の米津さんではなく205号室の丹野ではないのか?
虐待魔である丹野が猫を捕まえるために餌やりをしているのではないか・・・?
ブーニャンとミーミーとチビが危ない。
背筋に悪寒が走った。
こうしてはいられない。
奥さんにいとまを告げ、真左子は近江さんの部屋を出た。
階段で2階へ降りて205号室の玄関ドアの前まで行った。階段から通路を奥へ向かって3つ目の部屋だった。
通路に面した窓の防犯用の格子に透明のビニール傘が1本掛けてあった。
窓はきっちりと閉められていて中を窺い知ることはできない。
不在のようだ。出勤しているのだろう。
ドア横の表札のスペースには何も書かれていなかった。
生活感が感じられない。本当に丹野の部屋だろうか?
階段に戻り1階に降りてマンションの集合ポストの205号室のボックスを探した。一番左の列の下から2番目。205号室のボックスのネーム部分にはマジックで「丹野」と書かれた紙が入れてあった。
205号室に丹野という男が住んでいることは間違いなさそうだった。
丹野はクララはベランダから逃げたと言ってるらしい。205号室のベランダを見てみなければ。
真左子はマンションの正面玄関を出て自転車置場の脇の道を建物に沿って歩き、南側へ出た。道路とマンション敷地の境に一列にツツジが植えられている。その奥が1階居住者の専用庭になっている。
205号室は西側の端から5番目。205号室の場所を目で追った。1つ、2つ、3つ、4つ、5つ。間違いない。205号室はここだ。
下から見上げる限り、ベランダには何も置いていない。やはり生活感が感じられない。
205号室の真下の部屋番号は105号室だろう。105号室の両サイドの部屋の専用庭には思い思いに芝生が植えられたり鉢植えが置かれたりしていたが、105号室の専用庭は土のままだった。所々に雑草が生えていた。
地上から2階のベランダまでの高さは目測で約3メートル。ベランダの柵は網入りのガラスパネルで高さは1メートル20センチ位だった。
ベランダの両サイドには、ボードが設置されていて、隣室のベランダと遮られている。しかし、クララがガラスパネルの柵の上を歩いていけば隣室のベランダに移動することは可能だ。
クララが柵伝いに別の部屋まで移動したとすれば、必ず移動先の住民から管理人に連絡が行ったはずだ。「猫が迷い込んできています」と。しかし、そういう連絡は今までなかったようだからクララが別の部屋に迷い込んだ可能性はなさそうだ。
そうするとベランダから下にジャンプしたのか? ガラスパネルの柵の下には15センチ位の隙間がある。猫であればこの隙間をすり抜けることはたやすい。ベランダから下へジャンプしたとすると真下の105号室の専用庭の地面はコンクリではなく土なので約3メートルの高さであれば死ぬことはないだろう。
もっともクララは11歳で若年の猫のような運動神経の俊敏さはなかっただろうから、捻挫くらいはしたかもしれない。
無事で生きていてほしい・・・。
しかし、「アタシが探して見つからなかった子は今までいない」という二田さんの言葉が引っ掛かる。
そうすると、やはりクララは丹野に殺されたのだろうか。
頭を振って恐ろしい想像を振り払った。
いずれにせよ二田さんと丹野との今後のやりとりを見守っていく必要がある。
自分の部屋に戻るため正面玄関を入ったとき、エントランス内に永山ハマイがいるのをみつけた。
一瞬、真左子は立ち止まった。
頭を切り替えるため大きく一回息を吸った。
彼女には聞かなければならないことがある。裁判所に提出した陳述書に彼女がサインした理由を。
永山ハマイは管理会社のネームが入ったブルーのシャツを着て、長い柄のついたブラシ状の箒と同じく長い柄のついた塵取りを手に持ってエントランスの掃除をしていた。
埃を箒で掃いて塵取りに入れるたびにカシャ、カシャと金属性の音がした。
管理組合が起こしてきた餌やり禁止裁判にこれから対処していくには彼女と友好的な関係を保ってマンション内の色々な情報を集めたい。
「こんにちわー」真左子は目いっぱいの笑顔を作って声を掛けた。
永山ハマイは振り向き、真左子の顔を見た。すると、みるみる顔の表情が曇った。
「今日は暑いわねー、夏みたいね」真左子はあくまで普段通りに言ってみた。
「そ、そうですね」
永山ハマイはドギマギしているようだった。明らかに動揺していた。
「あのね、私、マンションの管理組合に訴えられたんですよ。猫に餌をやるなって。
それでね・・・」
そこまで言ったとき、永山ハマイは真左子の言葉を遮った。
「私、そういうことに関わりたくないんですっ!」
そう言ってクルリと踵を返し、足早に管理室に逃げ込み、後ろ手にドアを閉めてしまった。
取りつく島もなかった。
真左子は正面玄関の外に目をやった。初夏の太陽に照らされたアスファルトの道路が白く光っていた。
(続く)