Site icon にゃんこマガジン

神楽坂の化け猫? いえいえ、ホン書き旅館の猫

いよいよ暑くなり、怪談話の季節…。7月26日は「幽霊の日」だったそうだ。なんでも、鶴屋南北作『東海道四谷怪談』が江戸中村座で初演されたのが、文政8(1825)年7月26日だったことに由来するらしい。江戸の怪談とくれば他に、『番町皿屋敷』『牡丹灯篭』、そして、『鍋島猫騒動』…と連想するが、この中で『鍋島猫騒動』は毛色がちょっと違う。他の3作が女性の怨念が引き起こす物語であるのに対して、猫騒動は子の無念を晴らすべく画策し、母親は自らの喉をかき切り、その血を飼い猫に飲ませ、結果として猫は化け猫と化し、子を殺された恨みを晴らそうとするお話。人間の恨みと執念が、普通の猫を化け猫にさせてしまうわけで、そこが恐ろしい。

この猫騒動に限らず、こうしたおどろおどろしい化け猫の話、欲深い人間が化け猫に懲らしめられるような話、猫にちょっとだまされるようなかわいい化け猫話もあれば、猫の恩返し的な話も。猫好きの人なら、いろいろご存知だと思うが、日本には実に多くの化け猫、猫に関する昔話がある。

そう言えば、昨年夏、三菱一号館美術館に『画鬼暁斎』展を見に行った際、おもしろい展示があった。暁斎が描いた化け猫の絵を(人間のサイズを)ほぼ等身大に拡大してあり、館内の壁一面に貼られていたものだ。

『画鬼暁斎』展の展示より。図録によれば絵の題名は「惺々狂斎画帖(三)」。明治3年以前に描かれたもの。

描かれている人間のサイズが自分とほぼ同じなので、この人たちが見ている化け猫のサイズも実物大ということになる。こんなでっかい猫が目の前に出てきたら、そりゃあ、のけぞって驚くよなぁ~と、愉快になる展示物だった。
ここだけは撮影可になっていたので撮ったのだけれど、ひとりで行ったので、化け猫のサイズが実際の人サイズと比較できず…。誰かと一緒に行けば良かったよなぁ。

それはともかく。

先日、「大きな猫を見た」という怪談話を読んだ。
『小説新潮』(7/22発行8月号)の特集「神楽坂怪談」。

『小説新潮』2016年8月号より

まずは掲載された小説を読んでみる。具体的な通りや寺院の名前が出てくるので、妙なリアリティがあって、けっこう怖い。夜、読むんじゃなかったと後悔しつつ読み進めると、東雅夫氏による寄稿『地霊は囁く』のページになった。あぁ、東氏だ、ホンモノ(笑)が出てくるぞと覚悟を決めて読んでいくと、神楽坂に暮らした泉鏡花が聞いたという怪談話。(*もとは『時事新報』大正13年1月1日~4日付け朝刊に掲載されたもの、とのこと)

《ある雨の晩、神楽坂下に転居したばかりの鏡花のもとへ、顔面蒼白で狼狽した様子の知人が駆け込んできた。それまで鏡花が借りていた矢来町の部屋に、代わって入居した男である。聞けば、化け物が出る、と云う。
「小窓の処へ机を置いて、勉強をしておりますと……(略)ふいと見ますと、障子の硝子一杯ほどの猫の顔が、」「顔ばかりの猫が、李の葉の真暗な中から……其の大きさと言ったら、ありません。そ、それが五分と間がない、目も鼻も口も一所に、僕の顔とぴったりと附着きました、………あなたのお住居の時分から化猫が居たのでしょうか」》(『小説新潮』2016年8月号「特集 神楽坂怪談」より引用)

猫の昔話にはよく大きな化け猫が登場する。
猫には妖力がある、祟る。昔から伝わる怪談話を聞いて知っている人間の心理が、猫を大きく見せたか。また、昔は今とは比べものにならないくらい暗かった。闇があるほうが、人間の想像力は豊かだったかもしれない。
暗闇で光る猫の目、静かな闇夜に細く響く鳴き声…。猫を見た人の心にも闇はあるだろうし、それらが掛け算しあって、大きな化け猫に見せたのかもしれないな、と想像…。

鏡花が住んだ神楽坂。
手元に昭和26年発行の東京の地図があるので、見てみたが、今とあまり変わらない感じだ。

『東京区分地図』(日本地図株式会社 昭和26年4月5日発行)より

鏡花が住んだ大正期も同じような地形、町並みだっただろうか。細い路地が多く、おそらく当時も、そこには人や物の往来も少なく、猫にとって暮らしやすい環境だったように思う。昨今、神楽坂は「猫の町」としても有名で、神楽坂人気の1つになっているけれど、昔もきっと、飼い猫も野良猫もたくさん住んでいただろうなぁ。
怪談話に出てくる「矢来町」は、夏目漱石終焉の地・早稲田南町にも近いことだし。

そう言えば、神楽坂には「化け猫フェスティバル」というイベントがある。公式HPによれば、《2010年から始まった猫の仮装イベント。神楽坂は「吾輩は猫である」で知られる夏目漱石のゆかりの地であり、江戸時代から花街として文化を支え、猫と縁の深い街として猫好きの人にも猫にも愛されてきました。猫の街ならではのお祭りをという声から生まれたイベントとして……(略)》とのこと。
毎年10月に開催されている、このイベント。ハロウィン絡みということもあり、実はこれまで「なんで神楽坂で化け猫なんだよ」とあまり好ましく思っていなかった。

でも、もしかすると、神楽坂には昔から猫がたくさんいて、巷に化け猫の昔話もあって、そうした神楽坂の土地の記憶が、鏡花の化け猫怪談話、「猫の町・神楽坂」のイメージ、化け猫フェスティバルなどをつなげているのかもしれないなぁと思ったりもする。

つながっている、と言えば…最後に、猫の町・神楽坂のシンボル猫となった猫が、もしかしたら、夏目漱石の“吾輩猫”の子孫か!?の話を。

『神楽坂の親分猫』より。

石畳の上に座る猫は、旅館「和可菜」で飼われていた黒猫のメメという。

和可菜は、神楽坂の路地の奥にある旅館である。昭和29年に開業したこの小さな旅館は、名だたる映画監督、脚本家、作家などが原稿執筆のために“カンヅメ”になってきた通称《ホン書き旅館》。和可菜の歴史と、彼らをきびしくも温かい目で見守り続けた名女将や従業員の女性たちのことは本を読んでいただくとして…。

(写真左)『神楽坂ホン書き旅館』黒川鍾信著 新潮社 2007年11月1日初版/(写真右)『神楽坂の親分猫』黒川鍾信著 講談社 2009年4月22日初版/黒川氏は和可菜の女将さんの甥。

メメは和可菜の看板猫として女将さんや宿の常連たちに愛され、さらには神楽坂の町おこしのシンボル的な存在として、神楽坂ぽちぶくろや缶バッジのキャラクターになった猫だ。

『神楽坂の親分猫』より

驚いたのが、この記述!
裏表紙のカバー、著者のプロフィールが書かれている下にメメの写真が載っているのだが、そこに《鼻も肉球も真っ黒の親分猫、メメちゃんの幼い頃》と書かれている。今までどうして気がつかなかったのか…。不覚。
もしかしたら、『吾輩は猫である』のモデルとなった黒猫の子孫かもしれないじゃないか~!

『神楽坂の親分猫』カバーより

以前、この「にゃんこマガジン」に寄稿した《漱石の猫と文鳥と》で、林丈二が著書『猫はどこ?』の中で、『吾輩は猫である』のモデルとなった黒猫の子孫を探しているという話を書いた。
モデルとなった吾輩猫の特徴は、①全身、黒ずんだ灰色の中に虎斑がある ②一見、黒猫に見える ③全身、足の爪まで黒い福猫 だという。
和可菜の看板猫だったメメは、実は真っ黒な黒猫ではなく、アメリカンショートヘアーで、その中でも珍しい「ソリッド・ブラック(混ざりのない同一の黒、の意)という種類。つまり、①を満たしていることになる。そして、②も、③も…となれば、漱石の吾輩猫の子孫である可能性もゼロではないと思う。

しかも、漱石が晩年を過ごした早稲田南町と、和可菜のある神楽坂4丁目はすぐ近く。
漱石の気持ちを和ませ、家族との絆を取り持ち、名作を生むきっかけになった黒猫は、『吾輩は猫である』が発行された3年後の1908(明治41)年に亡くなったが、鏡子夫人は、このモデルとなった猫と同じような猫を探して、飼い続けたそうだ。
やはり、メメは吾輩猫の血筋じゃないのかなぁ。

もっともメメも既に天国に召されてしまっているので、もはや確かめようもないのだが、旅館「和可菜」にも、女将さんや従業員の方にも、和可菜に集まった当代一流の作家や監督たちにも、神楽坂の町にも、福をもたらす福猫だったことは間違いない。


関連記事:

writer