第9回 オジサンと猫(2)
真左子は居間に立って回りを見回した。間取りは2LDKだった。
そこから見えたのは、段ボール、炊飯器、電気料金や水道料金のお知らせの紙、ノート類、缶コーヒーの空き缶、トイレットペーパー、賞状の入った額縁などが山積みになった光景だった。
ガラス引き戸の食器棚には、無数の食器類が詰め込まれていた。
フレームに入ったスナップ写真も散らばっていた。奥さんらしき人と一緒に写った写真もあった。
台所は空のペットボトルやら調味料の瓶やらが散乱していた。
シンクの中もびっしりと物が詰まっているので、使えない状態だ。
その下のキャビネットの扉は白く汚れ、腐って板が剥がれかけていた。
和室の押入れの襖は開けっ放しになっていて、布団が中から溢れ出している。
畳の上には荷物の詰まった段ボール箱が散乱していた。
部屋の中央部に万年床が敷いてあった。
オジサンはここで寝ているのだろう。
傍らの洗面器に黒い液体が入っていた。洗面器は傾いていて、あと少しでその黒い液体は下にこぼれそうな状態だった。
真左子はテレビで見たことはあったが現実にゴミ屋敷を見たのはこれが初めてだった。
「猫は捕まえといてくれた?」
嘉村がオジサンに尋ねた。
「いや。だけどその辺にいるよ」
オジサンはそっけなく言って顎で部屋の四隅をぐるりと示した。
見回してみる限り部屋の中に猫は見えなかった。
3人は猫が出てくるまで待つことにした。
「三崎さん、引っ越すのよね?」 嘉村はオジサンに言った。
「うん・・・」
嘉村は真左子の方を向いた。
「このマンション、三崎さんのマンションじゃないんだって。奥さんのお兄さんのマンションなんだって。だけど奥さんが昨年の11月に亡くなったのよ。それで三崎さん、ここから出て行かなくちゃならないんだって」
「えっ、このまま住まわせてくれないんですか? 引っ越すの大変ですよね」
「お兄さんて歯医者さんだったんだけどね、もう年なんで医院は閉めたんだけど、このマンション売るんだって」
「そんなに急に売る必要あるんですか?」
「・・・・・・なんか元々仲悪かったらしいのよ、奥さんのお兄さんとは。ね、三崎さん」
「うん・・・」
オジサンは聞かれた事にうんうんと頷くだけでほとんどしゃべらない。
嘉村は真左子に言った。
「実は三崎さんがエサあげてんの、もう1匹いるのよ。グレー白のハチワレ。三崎さんが引っ越したらその子もウチで保護しようと思って」
すると、オジサンが口をはさんだ。
「いや、引っ越したって俺が毎日餌やりにくるんだからさ。近くにアパート借りて。猫は場所に付くんだから。ここいら辺の場所に付いてるんだから、あの猫は」
「昔の考え方よー、そんなの。それに餌やるってどこでやるのよー? 前の駐車場で? 駄目よー、そんなの。住民でもない人が餌やりに来てたらトラブルになるに決まってるわよ。それに前の道路に車だって沢山走ってるし、危ないわよー。この際、ウチで保護した方がいいわよ」
「・・・・・・」
オジサンは納得していないようでプイと横を向いた。
その時、猫が器用にゴミの隙間をジャンプしながら居間の方にやって来た。玄関を入った左の6畳間にいたのか?
茶白の猫。茶色は薄い茶色でシュークリームの皮のような色。尻尾は大きくて毛が長い。洋猫の血が入っているのだろう。
体は汚れ、毛はバサバサ。背中の毛が固まって毛玉になっていた。口の回りが黒く汚れている。
「三崎さん、捕まえて」 すかさず嘉村が言った。
オジサンは猫に背後から近づき両手でそっと捕まえた。特に抵抗はしなかった。
嘉村はキャリーケースをちゃぶ台の上に置いてフタを開けて待っていた。
オジサンは両手にもった猫を足からその中に降ろした。
猫はニャオと言って少しだけ抵抗したが、すんなりキャリーケースの中に入った。
嘉村はフタをしてロックした。
「ホラ、口がこんなに汚くなっちゃってるのよ、見て。病院連れてかなくちゃ。この子はウチで保護しますからね」
「うん・・・」 おじさんは渋々答えた。
「名前は何ていうんですか?」 真左子が尋ねた。
「三崎さん、名前付けてないのよー」
少し間を置いてから嘉村は『そろそろ帰ろう』と真左子に目で合図した。
嘉村は玄関で振り向き、オジサンに真顔で言った。
「もう1匹もウチで保護しますからね」
「いや、あれは俺が餌をやりに来るからさー」 オジサンは両手をズホンのポケットに突っ込んで外側に拡げながらブツブツ言っていた。
抵抗するオジサンを無視して2人はマンションを出て、来た道を帰ることにした。
嘉村は手に持ったキャリーケースを少し上に持ち上げた。
「病院連れていくわ。それから里親さん探す」
新青梅街道に出て哲学堂公園の方に向けて歩いた。交通量はそれほど多くない。時折タクシーやバスが走っていた。
歩道には10メートルくらいの間隔で街路樹が植えられている。日陰の中を2人は歩いた。
「オジサン、もしかして認知症が始まってるんですか?」 真左子は尋ねた。
「かもしれないわね。去年奥さんが亡くなってから、ちょっとおかしくなってきてるみたいね。だって見たでしょ。ゴミ屋敷よ、あれ」
猫は最初のうち空気をつんざくような鋭い声で「ニャーッ!、ニャーッ!」と鳴いていたが、そのうち静かになった。
ずっしりと重い。4キロぐらいはあるだろう。オジサンからゴハンはたっぷりもらっていたせいか痩せてはいない。嘉村と真左子は交替でキャリーケースを持った。
「オジサン、アパート探しとか自分でできるんですか?」
「うーん・・・・・・」 嘉村は上空を見ながら考えていたが答えは出なかった。
「福祉の人とか来てるんですか?」
「あっ、来てるらしいわよ。なんか言ってた。区役所の人が定期的に来てるって」
「引っ越すって言ってもあのゴミの山の処分代って結構かかるんじゃないですか? 業者さんに頼んだら50万円以上かかるような気がするんですけど」
「うーん、どーするのかなー。でもどうにかなるわよ。だいたいお兄さんが出てけって言ってるんだからお兄さんが出せばいいのよ」 嘉村はあっさりと言った。
2人はキャリーケースを揺らさないようにゆっくり歩いていった。
哲学堂の交差点を左に曲がる。その先の緩いカーブを過ぎれば300メートルほどで駅だ。
高校の正門前から大勢の下校する高校生が駅の方向へ向かって歩いていた。
ようやくA駅に着いた。
嘉村の家は都立家政。真左子は歩いて家に帰る。
2人は改札の入口で別れることにした。
真左子はしゃがんでキャリーケースの中の猫にバイバイと言った。
キャリーケースを持った嘉村は改札内に入って行った。
「もう1匹を保護するときもお願いねー」
「分かりましたー」
真左子は笑顔で手を振った。
午後4時を回っていたがまだ夕方の気配は全然なかった。
駅前の道路脇に先週終わった選挙のポスターの掲示版がまだ立っていた。
(続く)