僕も妻様も、子どものころ、犬と暮らしていました。
帰ってくると真っ先に尻尾を振って出迎えてくれ、一緒に散歩にも行く。ご飯を食べる前には甘えた声を出し、完食した後にはお腹をさすってもらいたくて膝の上に飛び乗ってくる。人間と動物の関係を越えて、パートナーになっていく。

こうした記憶が動物と暮らす原体験が、僕たち二人の脳に刻まれています。だから猫である大吉に、悪気なく求めてしまうのです。
「おすわり」と「お手」を。

この「おすわり」と「お手」は、犬の従順さを示す象徴的なポーズであるだけでなく、基本的な芸でもあります。賢い犬にとっては朝飯前で、なかなか言うことを聞いてくれない犬にとっても、何とかできる技と言えるでしょう。
そんな「どんな犬にでも頑張ればできる」という認識が「きっと大吉にもできるに違いない」という認識へと直結するのです。

しかしながら、と言うべきか。
残念ながら、と言うべきか。
当然のことながら、と言うべきか。

大吉は、一向にこちらが思うように「おすわり」と「お手」をしてくれません。
ご飯を前にして「おすわり」と語りかけたところで「全く意味が分かりませんけど?」と言わんばかりの顔で、疑いの眼差しを向けてきます。

「お手」と手のひらを差し出してみると、「ご飯が乗っているの?」と手のひらを覗き込む。そして、念のため手のひらの匂いを嗅いでみて、何もないことを確認したうえで「何かくれるような態度取るなやーっ!」と言わんばかりにガブリと一噛みする始末。
それでも直ぐに諦めることはないのが、人間というものです。
「もう少し訓練を続ければ、大吉だって覚えてくれるに違いない。いや、もしかしたら僕の教え方の問題か? こんなふうに言ったら分かるかな?」

こんな繰り返しが幸せだったりもするのですが、長期間にわたって余りにも全く進歩がないと、諦めたくもなってしまうもの。そんな心中を知ってか知らずか、こちらがしびれを切らすまさにその日に限って、おすわりっぽい動作や、お手っぽい仕草をしてみせるのです。
すると、僕と妻様は小躍りして喜び、訓練の成果が出てきたと思い込み、また指導に熱が入ります。翌日以降は当然の如く「おすわり」も「お手」もするわけもなく、また学び直しの日々となるわけです。

こうして早五年の歳月が過ぎようとしています……。

「おすわり」も「お手」も、できればできるで嬉しいことは間違いありません。その一方で、できた瞬間に次の新しいこと、例えば「おかわり」や「伏せ」を求めてしまうであろうことも予想できます。もちろん、できていないので、そんな心配をする必要もないわけですが。

その意味では、できないことが前提にあるからこそ、稀にできた時の喜びはひとしおなのでしょう。ポジティブに考えれば、できないことは決して欠点ではなく、むしろ僕たちに大きな喜びを与えてくれる長所であり、人生のスパイスのようなものと言えそうです。もしかしたら、僕と妻様は大吉が「おすわり」や「お手」をできないことに感謝しなければならない立場なのかもしれません。

人間においても同じことが言えるでしょう。
できる人はできることが前提になるため、周囲はできて当たり前と思い、失敗すれば怒られてしまう。しかしながら、できない人は、誰でもできるようなことをできただけで、世紀の偉業を成し遂げたかのように褒めてもらえたりします。

どちらの生き方が得なのかは、一目瞭然ですね。
僕は大吉と暮らし始めてから「できない=悪」という固定概念を捨て去り、分からないことは分からない、できないことはできない、と断言する勇気を手に入れることができました。そして、新しい人生の指針を見出したのです。

圧倒的にできる者は、人から尊敬される。圧倒的にできない者は、人から愛される。
このことに気が付いてからというもの、今まで感じていた人間関係の息苦しさから解放され、かなり生きやすくなったような気がします。そして不思議なことに、自分を助けてくれる仲間が増えたように感じられます。
もしかしたら、自分のことを生きづらくさせていた張本人は、自分だったのかもしれません。

そんな大吉との喜劇的気づきの日々をまとめた本です。

 

著者:梅田悟司

 

 

僕も妻様も、子どものころ、犬と暮らしていました。
帰ってくると真っ先に尻尾を振って出迎えてくれ、一緒に散歩にも行く。ご飯を食べる前には甘えた声を出し、完食した後にはお腹をさすってもらいたくて膝の上に飛び乗ってくる。人間と動物の関係を越えて、パートナーになっていく。

こうした記憶が動物と暮らす原体験が、僕たち二人の脳に刻まれています。だから猫である大吉に、悪気なく求めてしまうのです。
「おすわり」と「お手」を。

この「おすわり」と「お手」は、犬の従順さを示す象徴的なポーズであるだけでなく、基本的な芸でもあります。賢い犬にとっては朝飯前で、なかなか言うことを聞いてくれない犬にとっても、何とかできる技と言えるでしょう。
そんな「どんな犬にでも頑張ればできる」という認識が「きっと大吉にもできるに違いない」という認識へと直結するのです。

しかしながら、と言うべきか。
残念ながら、と言うべきか。
当然のことながら、と言うべきか。

大吉は、一向にこちらが思うように「おすわり」と「お手」をしてくれません。
ご飯を前にして「おすわり」と語りかけたところで「全く意味が分かりませんけど?」と言わんばかりの顔で、疑いの眼差しを向けてきます。

「お手」と手のひらを差し出してみると、「ご飯が乗っているの?」と手のひらを覗き込む。そして、念のため手のひらの匂いを嗅いでみて、何もないことを確認したうえで「何かくれるような態度取るなやーっ!」と言わんばかりにガブリと一噛みする始末。
それでも直ぐに諦めることはないのが、人間というものです。
「もう少し訓練を続ければ、大吉だって覚えてくれるに違いない。いや、もしかしたら僕の教え方の問題か? こんなふうに言ったら分かるかな?」

こんな繰り返しが幸せだったりもするのですが、長期間にわたって余りにも全く進歩がないと、諦めたくもなってしまうもの。そんな心中を知ってか知らずか、こちらがしびれを切らすまさにその日に限って、おすわりっぽい動作や、お手っぽい仕草をしてみせるのです。
すると、僕と妻様は小躍りして喜び、訓練の成果が出てきたと思い込み、また指導に熱が入ります。翌日以降は当然の如く「おすわり」も「お手」もするわけもなく、また学び直しの日々となるわけです。

こうして早五年の歳月が過ぎようとしています……。

「おすわり」も「お手」も、できればできるで嬉しいことは間違いありません。その一方で、できた瞬間に次の新しいこと、例えば「おかわり」や「伏せ」を求めてしまうであろうことも予想できます。もちろん、できていないので、そんな心配をする必要もないわけですが。

その意味では、できないことが前提にあるからこそ、稀にできた時の喜びはひとしおなのでしょう。ポジティブに考えれば、できないことは決して欠点ではなく、むしろ僕たちに大きな喜びを与えてくれる長所であり、人生のスパイスのようなものと言えそうです。もしかしたら、僕と妻様は大吉が「おすわり」や「お手」をできないことに感謝しなければならない立場なのかもしれません。

人間においても同じことが言えるでしょう。
できる人はできることが前提になるため、周囲はできて当たり前と思い、失敗すれば怒られてしまう。しかしながら、できない人は、誰でもできるようなことをできただけで、世紀の偉業を成し遂げたかのように褒めてもらえたりします。

どちらの生き方が得なのかは、一目瞭然ですね。
僕は大吉と暮らし始めてから「できない=悪」という固定概念を捨て去り、分からないことは分からない、できないことはできない、と断言する勇気を手に入れることができました。そして、新しい人生の指針を見出したのです。

圧倒的にできる者は、人から尊敬される。圧倒的にできない者は、人から愛される。
このことに気が付いてからというもの、今まで感じていた人間関係の息苦しさから解放され、かなり生きやすくなったような気がします。そして不思議なことに、自分を助けてくれる仲間が増えたように感じられます。
もしかしたら、自分のことを生きづらくさせていた張本人は、自分だったのかもしれません。

そんな大吉との喜劇的気づきの日々をまとめた本です。

 

著者:梅田悟司