コーヒーを載せたトレイを持って近江さんの奥さんはキッチンからリビングの方に来た。
真左子用のコーヒーカップは花柄模様、自分用のはマグカップだった。
奥さんはトレイをテーブルに置き、真左子の左側の一人用のソファに腰かけた。そしてコーヒーカップを真左子の前に置いた。
この花柄模様は私の嫌いな花柄模様ではない。真左子は思った。
「あなたも猫が好きなの?」奥さんは言った。
「はい、家に2匹います」
「まー!」奥さんは嬉しそうに言った。
コーヒーを載せたトレイを持って近江さんの奥さんはキッチンからリビングの方に来た。
真左子用のコーヒーカップは花柄模様、自分用のはマグカップだった。
奥さんはトレイをテーブルに置き、真左子の左側の一人用のソファに腰かけた。そしてコーヒーカップを真左子の前に置いた。
この花柄模様は私の嫌いな花柄模様ではない。真左子は思った。
「あなたも猫が好きなの?」奥さんは言った。
「はい、家に2匹います」
「まー!」奥さんは嬉しそうに言った。
「管理組合のことで話がしたいって、一体なーに?」奥さんは少し間を置いてから話を切り替えた。
「私、訴えられたんです。私が野良猫に餌をやるんでウンコやゲロでマンションの住民が迷惑しているって。損害賠償をしてくれって」
「最近見たことないわよ、このマンションで猫のウンコやゲロなんて。作ったのよ、そういう話を。きっとそうよ」
「作った?」
「そうよ、そういう話をでっちあげて裁判を起こすのよ、大竹さんって人はそういう人」
「・・・・・・」
「もう管理組合にかかわるのはごめんだわ」奥さんはマグカップのコーヒーを啜りながらきっぱりと言った。
真左子もコーヒーを一口飲んだ。インスタントだが美味しいと思った。
「何があったんですか?」
「大竹さんがこのマンションに越してくるまでは平和だったのよ、このマンションは。大竹さんが来てからどんどんおかしくなっていった。だいたいあの人、理事長なんかじゃないんだから。自分で勝手にそう言ってるだけよ」
大竹は法的には理事長ではないと多津子が以前言っていたのはこのことかと真左子は思った。
「詳しいことは主人に聞いてもらうといいわ。今入院してるの、主人は。板橋のN大病院に」
「入院?」
「そう、倒れたの、先月。腎臓が悪くてね。10年くらい前に1回入院して、一昨年の1月にも入院したの。これで3回目よ」
「大丈夫なんですか?」そんな重病の人に話が聞けるのだろうか? 心配になって真左子は尋ねた。
「うん、もう大丈夫。先週あたりから歩けるくらいにまでなってるから。D病棟の603号室よ」
真左子は小さい手提げバッグから手帳を出してボールペンでメモした。
「どうせ暇にしてるから行ってあげて。きっと喜ぶわ。私は毎日行ってるんだけどね。今日もこれから行くのよ」
テレビのディスプレイの画面はサッカーのワールドカップ予選のニュースに変わっていた。
「天気予報はやってないかしら」奥さんは少しうんざりしたような顔をしてリモコンでせかせかとチャンネルを変えた。
天気予報はどのチャンネルでもやっていなかった。
最後のチャンネルではロックミュージシャンとの不倫関係を週刊誌に曝露された女性タレントの謝罪会見が映っていた。10数本のCMを降板させられたという。
奥さんはあきらめてテレビのスイッチを切った。
部屋に静けさが広がった。
猫と人間の平和な棲家。この瞬間が永遠に続くかのように思われた。
グレーの猫はソファに上がり、真左子の右隣りで丸くなって寝そべっていた。薄目は開けているようだった。真左子は、猫のお腹にそっと右手を当てていた。
「この猫さんは?」真左子は尋ねた。
「7年くらい前だったかしら、拾われて交番に届けられたのよ。それでM警察署の方に持っていかれてボランティアをやってる二田さんていう人が引き出したの。それでうちが里親になったの」
「捨てられたんですか?」
「分からないわ、捨てれられたんだか逃げたんだか。迷い猫探してますって貼り紙がされてないか近所をしばらく注意して見てたんだけど、なかったわ」
「二田さんのことは知ってる?」奥さんは真左子に訊ねた。
「いえ、知りません」
「20年も前からK町周辺で野良猫の不妊去勢をやってるのよ。もう家一軒建つくらいのお金使ったって」
「すごいですね」
奥さんはマグカップを持ち上げコーヒーに少しだけ口を付けてテーブルに戻した。
「あっ、そうそう」奥さんは急に思い出したかのように少し大げさに両手を上げた。
ソファから立ち上がって部屋の奥にあるスペイン風のタイルを貼ったチェストの一番上の引出から1枚の写真を取り出した。
「二田さんが保護してた子なんだけどね」奥さんは真左子にその写真を手渡した。「クララっていう子なの。11歳くらいだって」
黒白タキシードの猫だった。幼い顔をしている。11歳には見えない。
舌の先を仕舞い忘れていた。この子のクセなのだろう。可愛い。
写真の上端には人の両手が写っていた。女性の手だ。おそらく二田さんという人の手だろう。クララにそっと手を添えている。
この子を慈しんでお世話をしてきたことが痛いほど伝わってきた。
「205号室の丹野って男知ってる?」奥さんは声を落として真左子の顔を覗き込むようにして言った。
「いえ、知りません」真左子は思い当たらなかった。
「賃貸で住んでる人なんだけど、若い男なのよ。一人で住んでるんだって。勤め人なんだけどね。二田さんが里親募集してたらその男が応募してきたの。それでクララを里親に出したんだけれど全然写真とかも送ってこないし、おかしいなと思っていたらしいんだけど。そしたら丹野からクララが逃げちゃったって電話があったんだって。だけど二田さんが仲間と散々探したけどクララは見つからなかったの。私も一緒に探したんだけどね。二田さんが詳しい話を聞きに丹野の部屋に行くと、窓際のフローリングに血の跡みたいなのがべったり付いていたんだって」
「えっ!」
(続く)