第8回 オジサンと猫(1)

ウンコやゲロの見回りで正面玄関の外にいたとき真左子の赤いガラケーが鳴った。ディスプレイに<嘉村さん(猫ボランティア)>の表示。
ガラケーを耳に当てた
「吉崎さん? 今いい? 猫1匹保護したいんだけど、一緒に来てくれる? ごめんねー」
嘉村は困ったオジサンから猫を保護したいのだという。詳しいことは会ったときに話すと。
金曜日の2時にA駅の北口の改札を出た所で待ち合わせをすることにした。

280805猫現象

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第8回 オジサンと猫(1)

ウンコやゲロの見回りで正面玄関の外にいたとき真左子の赤いガラケーが鳴った。ディスプレイに<嘉村さん(猫ボランティア)>の表示。
ガラケーを耳に当てた
「吉崎さん? 今いい? 猫1匹保護したいんだけど、一緒に来てくれる? ごめんねー」
嘉村は困ったオジサンから猫を保護したいのだという。詳しいことは会ったときに話すと。
金曜日の2時にA駅の北口の改札を出た所で待ち合わせをすることにした。

280805猫現象

金曜日。A駅は真左子の最寄駅であるN駅から1駅。電車に乗るまでもない。家からの距離はどちらもたいして変わらない。真左子は自宅から歩いてA駅へ向かった。
北口の改札に着いたのは待ち合わせ時間より5分ほど早かったが、嘉村は既にキャリーケースを手に持って待っていた。これに猫を入れて持って帰るのだろう。
2人は駅前の道を新青梅街道へ向けて歩いた。
空には雲がいくつか見えていたが晴れ渡っていて汗ばむ陽気だった。
嘉村は言った。
「困ったオジサンなのよ。オジサンっていっても70過ぎだけどね。三崎さんっていうの。10年位前からアタシが関わってるんだけど、当時はすごかったの。まるで花咲爺さんみたいにマンションの前の駐車場でフードをばら撒いてたのよ。皿も何にも置かないでよ。よく苦情が来ないなと思って」
「ひどいですね」 真左子は苦笑した。
「それで近所の住民が見るに見かねて心配してアタシの所に相談にきたの。当時は10匹位いたのよ。ウチで不妊去勢して今やっと2匹になったのよ」
「手術はさせてくれたんですか?」
「最初は駄目だって言ってた。それで説得して不妊だけは何とかやったんだけど、最後まで『去勢だけは絶対駄目だ』って言い張ってたのよ」
「それでどうしたんですか?」
「やっちゃったわよ」
嘉村はいたずらっぽく笑いながら言った。

高校の正門やいくつかの古びた商店を通り過ぎ、10分ほど歩くと新青梅街道に出た。緑深い哲学堂公園の脇だ。静かな場所。木がこんもりと繁っているせいか歩道は日陰になっていて心地よかった。車は走っていたが、人の姿はあまり見られない。
新青梅街道を目白通り方向へ数分歩いて交差点を左に曲がった。
50メートルほど歩くと右に大きな古いマンションがあった。色はベージュで無個性な建物。
「ここよ」 嘉村が言った。
築30年以上で300戸くらいあるだろう。下から数えてみると11階建あった。

「ちょっとタバコ1本吸っていこうよ」 嘉村はそう言ってマンション脇の道路の電信柱の下に歩いて行った。
「大丈夫なんですか、ここ」
真左子は回りを見渡した。辺りに灰皿は置いていなかった。
「大丈夫よ」
嘉村は手提げバッグから携帯用の灰皿を出した。缶のタイプではなく、ソフトな袋状のものだった。
「それでね、この前、久しぶりにオジサンところに様子見にいったら2匹のうちの1匹が部屋にいたの。口の中が爛れてるみたいだった。口内炎よ、あれ」
嘉村と真左子は煙草に火を付けて吸い始めた。
「それでオジサンに病院連れてったのって聞いたら、連れてってないって。それじゃーこの猫はウチで保護して病院に連れて行きますからね、ってオジサンに言ったのよ。このままじゃ死んじゃうよって。とにかく猫は好きなんだけど、病院には絶対連れて行かないって人なのよ」
「困ったオジサンですね」

煙草を携帯用の灰皿で揉み消し、2人はマンションの敷地に入って行った。
建物の前の敷地は露天の駐車場。正面玄関のガラス扉を開けて中に入って行く。
古いマンションだったが管理は一応ちゃんとされているようで荒んではいなかった。掲示板にお知らせや注意書の紙が4、5枚貼ってあった。管理室の窓口には誰もいなかった。管理人は常駐ではなく通いなのかもしれない。

オートロックではないので2人は管理室の前をそのまま通り過ぎオジサンの部屋である119号室へ向かった。
ドアの横の表札の所にはボロボロの名刺が2枚貼ってあった。
1枚の名刺には会社の名前が書いてあってその下に「三崎〇×」と書いてあった。オジサンの名前だ。
もう1枚の名刺には別の人の名前。
昔はこの部屋で仕事をしていたのだろう。

嘉村がドアをドンドンと叩いて、「三崎さーん、嘉村ですー」と言った。
インターホンは壊れてるらしい。
しばらくしてドアがゆっくりと開いた。
髪がバサバサで薄汚れたアンダーシャツに沁みだらけの黒いズボンをはいた身長160センチ位のオジサンがそこにいた。

一歩玄関口入ると、生ゴミが腐ったような臭いが鼻をついた。
風向きによっては近所の住民から苦情がくるのではないか。
中はいわゆるゴミ屋敷だった。
ありとあらゆるゴミが散乱していた。ビニールのゴミ袋に入れられているものもあれば、そのまま床に転がっているゴミもあった。
靴を脱いで上がるの? 真左子は思った。
できれば土足のまま上がりたい。
靴下が汚れるし、そのまま靴を履いて帰れば靴の中が汚れる。
もちろんスリッパなんて置いてない。

しかし嘉村はとくに躊躇することなく、靴を脱いでオジサンの後について室内に入って行った。部屋の中の勝手は知っているようだった。
真左子もしかたなくそれに続いた。

居間までの距離は3メートル位であったが、そこに行きつくまでが大変だった。足の踏み場がない。用心して歩かなければ変な物を踏んで足の裏に怪我をするかもしれない。
居間への途中、左手に6畳間位の部屋があり、ちらりと覗いてみた。
洋服タンスが2つと本棚が置いてあった。洋服タンスの扉は開けっぱなしになっていて中の古い洋服が見えた。新聞雑誌類やコンビニのレジ袋に入ったゴミ、衣類、額に入った風景画、掛け時計、段ボール箱、くしゃくしゃになった三越や西武デパートの紙袋などがゴチャゴチャに1メートル位の高さまで積みあがっていた。

居間も無数のゴミで足の踏み場もなく座る場所もないので、嘉村と真左子は立ったままでいた。
オジサンも部屋の隅に置かれたテレビの横に無表情でつっ立っていた。
嘉村が用心して抜き足差し足で部屋の隅まで行き、薄いブルーのカーテンとその奥のレースのカーテンを一緒にサッと引いた。
外の明るい陽射しが一挙に入ってきた。
サッシの外は専用庭になっていた。6畳間位の広さ。錆だらけの白いフェンスに囲まれた専用庭は一切手入れしてなく草ボーボーで、雑草のツルがびっしりとフェンスに巻き付いていた。
オジサンの猫との生活が見えたような気がした。オジサンは専用庭に来る猫にゴハンを与え、サッシを少し開けておいて猫が自由に出入りできるようにしていたのだろう。
そうやって猫と暮らしていたに違いない。

(続く)