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漱石の猫と文鳥と

昨年7月に放送された「歴史秘話ヒストリア」の【漱石先生と妻と猫~『吾輩は猫である』誕生秘話】をご覧になっただろうか。ロンドン留学中に精神的に病んでしまい、帰国後はなにかと家族に当たり散らすこともあったという漱石の運命を切り開いた妻・鏡子と、『吾輩は猫である』のモデルとなったとされる猫のことを描いたものである。

漱石の気持ちを和ませ、家族との絆を取り持ち、名作を生むきっかけになった黒猫は、『吾輩は猫である』が発行された3年後の1908(明治41)年に亡くなったが、番組によれば、鏡子夫人は、このモデルとなった猫と同じような猫を探して、飼い続けたそうだ。

そして時は流れに流れ、昭和の終わり頃になって、その「子孫がいるかもしれない」と、黒猫探しをしたのが林丈二さん。全国の街や駅を歩いてはユニークなマンホールの蓋や看板などを見つけながら歩く路上観察の達人である。

表紙  『猫はどこ? 街歩き猫と出会う』(林丈二著/廣済堂/1996年8月15日初版)

 

最初に探したのは1988(昭和63)年だという。その経過は『路上探偵事務所』(毎日新聞社刊/1990.11/その後講談社文庫)に。しかし、この時は見つからなかったので、再び「子孫」探しに出たのが、1993(平成5)年。その時の様子が『猫はどこ?』にまとめられている。

本書で、吾輩猫のモデルとなった猫についての記述がある。

(林さんが本書で“吾輩猫”と書いている。なにしろ、この猫には「名前がない」のだから、こうとでも言いようがなかったのだろうが、言い得て妙である)

①全身、黒ずんだ灰色の中に虎斑がある。

②一見、黒猫に見える。

③全身、足の爪まで黒い福猫。

『猫はどこ?』より

 

最初の『路上探偵事務所』の時は、漱石が『吾輩は猫である』を書いた本郷区駒込千駄木(現在の文京区向ヶ丘)あたりを探したそうだが、『猫はどこ?』では漱石終焉の地、早稲田南町界隈。あの黒猫も、千駄木からの引っ越しの際に一緒に連れてこられているということで、期待も高まる?

 

そして、さすが路上観察の達人、林丈二さん。やみくもに探し回るわけではない。たとえば公園。漱石の住居跡の漱石公園では、ベンチでお年寄りが3人、日向ぼっこをしていたそうだ。

《今までの経験から、お年寄りがのんびりくつろいでいるような所は、猫も居心地がいいらしく、共に同じような環境に集まる傾向があるのである》

なるほど!

 

次に向かったのは神社。ここでは黒くはないが虎斑のある猫がいて、近寄ってアゴのあたりを撫でることはできたのだが、爪が黒いかどうかを確かめようとしたら、さすがにこれは嫌がられ、爪の色は確認できなかったようだ。

もう~ヤキモキするなぁ。結局、吾輩猫の末裔らしき猫は見つかったのかぁ~と、結果が気になって、ついつい、ページを飛ばして見てしまう(苦笑)。

これが吾輩猫の末裔か? なかなかいい面構え。爪も黒っぽく見えるが…

 

…と、そこにあったのは豆腐屋の前に座る1匹の黒猫! お、ついに? 爪は黒かったのか?と勇んでページをめくったら……そこは既に別の猫の話になっていた。

でもって、神社猫の話が書かれていたページまで戻る。

するとそこに、この記述。

《実はその間の一九九二年十一月十四日、文京区の漱石邸だった近くで偶然それらしき「猫」に出会っている。……中略……。この貫禄といい、こいつが今までのうちで一番「吾輩モデル猫」に近い猫である》

な~んだ。

爪の色の話が出ていないので、この黒猫の爪は確認していないのだろう。

でも、この黒猫は、写真に写っている豆腐屋さんに時々やってきて、魚を与えるとすごくきれいに食べると豆腐屋のおばさんが言っていたそうである。

そう言えば、冒頭の「歴史秘話ヒストリア」でも、吾輩猫は魚が好きで、死後、命日になると、漱石の妻・鏡子さんがお墓に黒猫が好きだったという猫まんまと鮭の切り身を供えていたと伝えている。

となると、この豆腐屋さんにやってくる黒猫がそれっぽい感じもする。

もちろん、科学的に証明できるものは何もないけれど、そう考えるほうが楽しいので、それでいいんじゃないの?…なーんて思ったりする。

 

『猫はどこ?』は、このあと吾輩猫の話題から離れ、各地で林さんが出会った猫の写真やエピソード、昔の新聞記事、猫のオブジェ、ヨーロッパの古絵葉書屋の話などが載っている。

『猫はどこ?』より

 

『猫はどこ?』より

 

さて、話を漱石に戻そう。

これは1975(昭和50)年に発行された『文芸読本~夏目漱石』(河出書房新社)。

『文芸読本 夏目漱石』(河出書房新社/1975年6月25日)

 

この中に『文鳥』という短い作品が載っている。年表によると、1908(明治41)年6月13日から21日まで『大阪朝日新聞』に連載した作品。

書き出しが《十月早稲田に移る》と書かれており、実際、前年の9月29日に千駄木から早稲田に引っ越してきているし、文鳥を飼っていた時期もあるようなので、小説というよりは随筆に近いのかもしれない。

 

文鳥は、漱石門下のひとり、鈴木三重吉が「飼うと良いですよ」と持ってきてくれた白い文鳥で、漱石はこの文鳥の可憐さに、昔、好きだった女性を思いだし、小説を書く合間に餌や水を替えてやり、縁側に出してやるなど、大事にしていた様子がうかがえる。

猫にカゴをひっくり返された時には、《自分は明日から誓って此の縁側に猫を入れまいと決心した》などと書いている。『文鳥』が書かれた時期を考えると、この猫はあの「吾輩猫」にちがいない!

『文芸読本 夏目漱石』より、『文鳥』

 

しかし、漱石のそうした気遣いもむなしく、数日後に文鳥は死んでしまう。猫のせいというわけではない。この頃、漱石は忙しく出歩いており、帰宅も遅く、餌をやり忘れ、家の者もそれに気づかず…といった状況があったようだ。漱石が文鳥が死んでいることに気がついた時、餌入れも水入れもカラだったと書かれている。

作品からは漱石が悲しんだ様子はうかがえず、むしろ、文鳥を飼うように勧めてきた三重吉に八つ当たりしている感じを受けるが、ネットで文鳥と漱石について検索してみたところ、【文鳥が死んだ時、漱石は鳥かごの前に経って涙を流していたという】と書かれている記事を見つけた(*『熊本日日新聞』2006.10.14)。

昔、好きだった女性を思いだし、大事にしていたことから、2度失恋したような哀しい気持ちになったのかもしれない。

この『熊本日日新聞』の記事によれば、漱石は熊本時代、猫や犬を飼っていて(松山中学を辞任後、熊本の第五高等学校で教鞭をとった)、とてもかわいがる半面、何かといえばブツブツと文句も言っていたらしい。

私は、これまで、夏目漱石の小説を読んだことはあっても、漱石の人柄に触れるようなものにはあまり興味がなく、世の中に膨大な漱石研究の書があることが不思議でもあったのだが、何か人を惹きつける魅力があるのだな~と、その理由がわかるような気もしてきた。

ところで、先出の漱石公園には、漱石宅で飼っていた猫や犬、文鳥の供養にと建てられた「猫塚」が復元されている。もとは、吾輩猫の十三回忌であり、漱石が亡くなった3年後の1919(大正8)年に、鏡子によって建てられたもので、台石の表面に猫をはさんで文鳥と犬の3つの像が刻み込まれていたそうだ。

復元された現在の猫塚には、何も刻まれていないのだろうか。今度、行って、見てきてみようと思う。


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