な~んだ。

爪の色の話が出ていないので、この黒猫の爪は確認していないのだろう。

でも、この黒猫は、写真に写っている豆腐屋さんに時々やってきて、魚を与えるとすごくきれいに食べると豆腐屋のおばさんが言っていたそうである。

そう言えば、冒頭の「歴史秘話ヒストリア」でも、吾輩猫は魚が好きで、死後、命日になると、漱石の妻・鏡子さんがお墓に黒猫が好きだったという猫まんまと鮭の切り身を供えていたと伝えている。

となると、この豆腐屋さんにやってくる黒猫がそれっぽい感じもする。

もちろん、科学的に証明できるものは何もないけれど、そう考えるほうが楽しいので、それでいいんじゃないの?…なーんて思ったりする。

 

『猫はどこ?』は、このあと吾輩猫の話題から離れ、各地で林さんが出会った猫の写真やエピソード、昔の新聞記事、猫のオブジェ、ヨーロッパの古絵葉書屋の話などが載っている。

「猫はどこ」写真3

『猫はどこ?』より

 

「猫はどこ」写真4

『猫はどこ?』より

 

さて、話を漱石に戻そう。

これは1975(昭和50)年に発行された『文芸読本~夏目漱石』(河出書房新社)。

「猫はどこ」写真5

『文芸読本 夏目漱石』(河出書房新社/1975年6月25日)

 

この中に『文鳥』という短い作品が載っている。年表によると、1908(明治41)年6月13日から21日まで『大阪朝日新聞』に連載した作品。

書き出しが《十月早稲田に移る》と書かれており、実際、前年の9月29日に千駄木から早稲田に引っ越してきているし、文鳥を飼っていた時期もあるようなので、小説というよりは随筆に近いのかもしれない。

 

文鳥は、漱石門下のひとり、鈴木三重吉が「飼うと良いですよ」と持ってきてくれた白い文鳥で、漱石はこの文鳥の可憐さに、昔、好きだった女性を思いだし、小説を書く合間に餌や水を替えてやり、縁側に出してやるなど、大事にしていた様子がうかがえる。

猫にカゴをひっくり返された時には、《自分は明日から誓って此の縁側に猫を入れまいと決心した》などと書いている。『文鳥』が書かれた時期を考えると、この猫はあの「吾輩猫」にちがいない!

「猫はどこ」写真6

『文芸読本 夏目漱石』より、『文鳥』

 

しかし、漱石のそうした気遣いもむなしく、数日後に文鳥は死んでしまう。猫のせいというわけではない。この頃、漱石は忙しく出歩いており、帰宅も遅く、餌をやり忘れ、家の者もそれに気づかず…といった状況があったようだ。漱石が文鳥が死んでいることに気がついた時、餌入れも水入れもカラだったと書かれている。

作品からは漱石が悲しんだ様子はうかがえず、むしろ、文鳥を飼うように勧めてきた三重吉に八つ当たりしている感じを受けるが、ネットで文鳥と漱石について検索してみたところ、【文鳥が死んだ時、漱石は鳥かごの前に経って涙を流していたという】と書かれている記事を見つけた(*『熊本日日新聞』2006.10.14)。

昔、好きだった女性を思いだし、大事にしていたことから、2度失恋したような哀しい気持ちになったのかもしれない。

この『熊本日日新聞』の記事によれば、漱石は熊本時代、猫や犬を飼っていて(松山中学を辞任後、熊本の第五高等学校で教鞭をとった)、とてもかわいがる半面、何かといえばブツブツと文句も言っていたらしい。

私は、これまで、夏目漱石の小説を読んだことはあっても、漱石の人柄に触れるようなものにはあまり興味がなく、世の中に膨大な漱石研究の書があることが不思議でもあったのだが、何か人を惹きつける魅力があるのだな~と、その理由がわかるような気もしてきた。

ところで、先出の漱石公園には、漱石宅で飼っていた猫や犬、文鳥の供養にと建てられた「猫塚」が復元されている。もとは、吾輩猫の十三回忌であり、漱石が亡くなった3年後の1919(大正8)年に、鏡子によって建てられたもので、台石の表面に猫をはさんで文鳥と犬の3つの像が刻み込まれていたそうだ。

復元された現在の猫塚には、何も刻まれていないのだろうか。今度、行って、見てきてみようと思う。

な~んだ。

爪の色の話が出ていないので、この黒猫の爪は確認していないのだろう。

でも、この黒猫は、写真に写っている豆腐屋さんに時々やってきて、魚を与えるとすごくきれいに食べると豆腐屋のおばさんが言っていたそうである。

そう言えば、冒頭の「歴史秘話ヒストリア」でも、吾輩猫は魚が好きで、死後、命日になると、漱石の妻・鏡子さんがお墓に黒猫が好きだったという猫まんまと鮭の切り身を供えていたと伝えている。

となると、この豆腐屋さんにやってくる黒猫がそれっぽい感じもする。

もちろん、科学的に証明できるものは何もないけれど、そう考えるほうが楽しいので、それでいいんじゃないの?…なーんて思ったりする。

 

『猫はどこ?』は、このあと吾輩猫の話題から離れ、各地で林さんが出会った猫の写真やエピソード、昔の新聞記事、猫のオブジェ、ヨーロッパの古絵葉書屋の話などが載っている。

「猫はどこ」写真3

『猫はどこ?』より

 

「猫はどこ」写真4

『猫はどこ?』より

 

さて、話を漱石に戻そう。

これは1975(昭和50)年に発行された『文芸読本~夏目漱石』(河出書房新社)。

「猫はどこ」写真5

『文芸読本 夏目漱石』(河出書房新社/1975年6月25日)

 

この中に『文鳥』という短い作品が載っている。年表によると、1908(明治41)年6月13日から21日まで『大阪朝日新聞』に連載した作品。

書き出しが《十月早稲田に移る》と書かれており、実際、前年の9月29日に千駄木から早稲田に引っ越してきているし、文鳥を飼っていた時期もあるようなので、小説というよりは随筆に近いのかもしれない。

 

文鳥は、漱石門下のひとり、鈴木三重吉が「飼うと良いですよ」と持ってきてくれた白い文鳥で、漱石はこの文鳥の可憐さに、昔、好きだった女性を思いだし、小説を書く合間に餌や水を替えてやり、縁側に出してやるなど、大事にしていた様子がうかがえる。

猫にカゴをひっくり返された時には、《自分は明日から誓って此の縁側に猫を入れまいと決心した》などと書いている。『文鳥』が書かれた時期を考えると、この猫はあの「吾輩猫」にちがいない!

「猫はどこ」写真6

『文芸読本 夏目漱石』より、『文鳥』

 

しかし、漱石のそうした気遣いもむなしく、数日後に文鳥は死んでしまう。猫のせいというわけではない。この頃、漱石は忙しく出歩いており、帰宅も遅く、餌をやり忘れ、家の者もそれに気づかず…といった状況があったようだ。漱石が文鳥が死んでいることに気がついた時、餌入れも水入れもカラだったと書かれている。

作品からは漱石が悲しんだ様子はうかがえず、むしろ、文鳥を飼うように勧めてきた三重吉に八つ当たりしている感じを受けるが、ネットで文鳥と漱石について検索してみたところ、【文鳥が死んだ時、漱石は鳥かごの前に経って涙を流していたという】と書かれている記事を見つけた(*『熊本日日新聞』2006.10.14)。

昔、好きだった女性を思いだし、大事にしていたことから、2度失恋したような哀しい気持ちになったのかもしれない。

この『熊本日日新聞』の記事によれば、漱石は熊本時代、猫や犬を飼っていて(松山中学を辞任後、熊本の第五高等学校で教鞭をとった)、とてもかわいがる半面、何かといえばブツブツと文句も言っていたらしい。

私は、これまで、夏目漱石の小説を読んだことはあっても、漱石の人柄に触れるようなものにはあまり興味がなく、世の中に膨大な漱石研究の書があることが不思議でもあったのだが、何か人を惹きつける魅力があるのだな~と、その理由がわかるような気もしてきた。

ところで、先出の漱石公園には、漱石宅で飼っていた猫や犬、文鳥の供養にと建てられた「猫塚」が復元されている。もとは、吾輩猫の十三回忌であり、漱石が亡くなった3年後の1919(大正8)年に、鏡子によって建てられたもので、台石の表面に猫をはさんで文鳥と犬の3つの像が刻み込まれていたそうだ。

復元された現在の猫塚には、何も刻まれていないのだろうか。今度、行って、見てきてみようと思う。